大坂と灘の対立
江戸時代は,世の中が平和になり,農村でも町方でも次々に新しい技術を生み出す余裕が生じた時期であった。しかしそれは同時に,既得権を持つ旧勢力と新技術で拡張する勢力の対立の時代でもあった。長木の大山崎としめ木の遠里小野の対立しかり,菜種油と綿実油の対立しかり。そして,従来の搾油の本場・大坂と,水車搾りの灘の対立が表面化するに至った。
灘の水車搾りの勃興は,西摂津地域の菜種生産と搾油産業を伸ばし,大坂の搾り油菜の市場占有率を圧迫し始めた。江戸の油需要の大部分は大坂に依存していたので,幕府は,安定供給を維持するため,大坂保護の政策を採った。
早い段階では,元禄11年(1698年)に,菜種と菜種油の買い占めを禁じる御触書を出して灘を牽制している。
その前年の元禄10年,大坂の綿実油屋(石灰で自油をつくる業者)が,町奉行に,大坂以外の油を買う許可が下りるよう願い出ている。町奉行は油問屋衆を呼び出して意見を求めた。油問屋衆いわく,近年他国の油の出回りが多く,日雇いの職人数万人が干上がってしまった。そこで京向・江戸向の油問屋は他国の油を買うのをやめていたのに,森田屋・柏屋・堺屋の3軒だけが買い続けている。この3軒の買い付けを止めさせ,綿実油屋の願いも却下してほしいとのことであった。数万人の失業は誇張があるにせよ,深刻に捉えられていたことは伺える。この一件が,翌年の御触書に繋がったとみられる。
同様の御触書は正徳・享保期にも出されたが,あまり効果はなかった。むしろ西宮の嵯峨屋,小池屋が,大坂油問屋の手を経ずに,江戸へ油を直送するなど,灘側の商売は拡大の一途であった。そこで幕府はついに,寛保3年(1743年),住国以外の他国種物の買い入れを禁止し,種物の大坂種物問屋への販売を命じ,兵庫・西宮・紀州・中国筋などからの江戸直積みを禁ずる御触書を公布した。16年後の宝暦9年(1759年)の御触書では,大坂へ送られる菜種が少ないため油が高値になったとして,諸国で菜種などを増産して大坂へ送るように,綿実も,幕府が指定する大坂の綿実問屋に送るようにと命じている。さらに,畿内・中国・四国・九州などで搾った油を江戸に直接送ることを改めて禁止し,大坂以外で生産された油を,自国内消費に限定した。原料も自国内で調達することとし,大坂行きの荷物を途中で買い取る道買いやはしけ買いを禁じた。幕府は石高制経済の維持に腐心しており,諸物資の高騰を警戒していた。支配の及ぶ大坂の問屋仲間を保護し,統制を続ける必要があったのである。
明和3年(1766年),幕府は,次のような過去にない厳しい内容の御触書を発令した。「どの国においても,搾油の原料は自給自足に限る。搾った油は,自家消費以外はすべて大坂の出油屋に売らねばならない。同じ村の中であっても,他家から原料を買ったり,油の売買をしてはならない」。これは,事実上,大坂以外の搾油業そのものを否定するものである。搾油業は,木綿づくりなどと異なり,家内工業の範囲を超え,大がかりな設備を揃え,専門の職人を雇って行うものである。ここまで締めつけられれば,コスト倒れで廃業せざるを得なくなる。畿内で広く行われていた搾油業の現状を無視したこの法令に対して,一斉に反対の声が上がった。廃業が続けば却って大坂への油の供給は不足するとの意見も出た。中には平野郷の出油屋のように,江戸の油問屋と連絡を取りながら,大坂の出油屋と争う例もあった。
そこで4年後の明和7年に幕府は改めて,「明和の仕法」と呼ばれる政策を打ち出した。その中身は,大坂に近接した摂津・河内・和泉の三カ国の搾油業については,原料の買い付けや油の自由販売を認めるが,それ以外の西日本諸国については徹底的に禁止するというもので為った。
これで三カ国は一息ついたが,他地域の搾油業も相当発展していたので,法令違反や村同士が連合しての反対運動が続出した。その結果,19世紀に入ると幕府も方針を変更し,各地の搾油業を認めるに至った。
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