江戸積油問屋
寛文年間(1661〜1673年),大坂の名町奉行として名高い石丸石見守定次は,出油屋・江戸積油問屋・京口油問屋・絞油商・油仲買の区別を立てて株仲間を結成させた。株仲間の構成員は京橋三丁目に集中していたので,ここを売買立ち会いの地とし,油相場を定めるに至った。株仲間は,公儀に冥加金を納める代わりに,独占権を保証された。出油屋は13軒,江戸積油問屋は6軒,京口油問屋は3軒に限り,新規加入は許さなかった。後に多少の増減はあったが,独占体制は変わらなかった。天保年間(1830〜1844年),油寄所を内本町橋詰町に設けたが,後に古巣の京橋三丁目に移転した。
江戸においては,元和年間(1615〜1623年)には,既に問屋と仲買の明確な区別ができていた。一般に,市売り,入札売り,相対売りの3つの方法で仲買に販売するものを問屋と呼んだ。そして問屋から品物を購入して,地方や市中に転売するものを仲買と言った。仲買業成立のきっかけは,元和3年(1617年)生魚の入荷があまりに多すぎて,市場で売買できない事態となった。問屋がそれぞれに雇い人を駆使して,直接買い手に売り渡した。この時の活躍を機に,雇い人達が独立し,仲買としての地位を固めていったのであった。
上方においては,仲買の発祥は中世まで遡る。当時は,まだ「すあひ」との区別が明確ではなかった。「すあひ」は,依頼者の名義で契約し,小量の取り引きを仲介することを指す。江戸時代になって,常時大量の取り引きを行う仲買が独立し,業種として成立した。
また大坂の問屋は,寛文年間には既に,普段から大量の委託販売をこなし,掛け売り商売を行っていた。寛文元年(1661年)の町触れには,他の商人の売り掛け金延滞についての訴訟は受理しないが,諸問屋の売り掛け金延滞についてのみ受理するとある。問屋は掛け売りが当たり前ということをお上も認識し,保護していたことがわかる。
さて,先述の加島屋三郎右衛門は京都・伏見への大々的な商いで財をなした人だが,早くも,消費の中心地となった江戸を目指した人もいた。その先陣を切ったのが,備前屋惣左衛門だと言われる。備前屋は,元和3年(1617年),上方の絞り油屋から油を買い集め,江戸への輸送を開始した。これが,江戸積油問屋の始まりとされる。
その発端は,最初の油問屋である加島屋には,連日,京から油を買いに来る商人と地元の絞り油屋が集まり,賑わいを見せていた。この商売繁盛を見ていた山崎に縁のある人が,山崎の絞り油衆にその様子をしばしば語った。
話を開いた人の中に,山崎離宮八幡宮の社家の川原崎某という人がいた。先祖は菅原道真公の子孫で,離宮八幡宮の神前で大神事を執り行っていたという。この川原崎某が,大坂の油を江戸に船で輸送・売買することを思いついた。まず試しに少しだけ積み下すことにして,初めて大坂に出た。その宿所が,備前屋宗左衛門であった。備前屋で油屋衆に相談したところ賛成だったので,江戸表に油を積み下すことに決まった。京・伏見へは荷桶で十分だが,遠路なので樽に詰めることになった。一樽の入れ目は,相談の結果,3斗9升に落ち着いた。これは米の5斗俵に等しく,万事米中心に動いていた当時としては船賃の見積もりもしやすく,1樽12匁と決まった。これが「江戸詰三斗九升」の始まりである。
その前提に海運の発達があったことは言うまでもない。元和5年(1619年),堺の船問屋某が,紀州富田浦から250石積みの廻船を借り受けて,江戸に大量の商品を出荷した。菱垣廻船,樽廻船の始まりである。主な荷としては,木綿,水油,綿,酒,酢,醤油などがあった。この船問屋は,荷主と船頭との間で,その前は曖昧だった運賃を,きちんと定めている。彼らの商業活動を端著として,上方から江戸へ向けて大量の水油が輸送され,江戸に水油問屋が誕生することとなった。
海運の発達と備前屋の成功に促され,大坂では,次々に江戸積間屋が誕生していく。寛永元年(1624年)には,泉屋平右衛門が,北浜町に江戸大廻問屋を開業。それから数年の間に,毛馬屋,富田屋,大津屋,塩屋などが名を連ねていった。
大坂から江戸へ,どれほどの油が流れていたのだろう。大坂町触書には,享保9年から同15年(1724〜1730年)にかけて,生活必需品11品目の江戸への出荷量の統計が残っている。その11品目とは,米・塩・味噌・醤油・酒・繰綿・木綿・薪・炭・油・魚油である。その中の油を見てみよう。
享保9年 |
享保10年 |
享保11年 |
享保12年 |
享保13年 |
享保14年 |
享保15年 |
7万3,651樽 |
6万2,802樽 |
6万9,172樽 |
4万9,744樽 |
5万7,301樽 |
4万8,639樽 |
7万7,022樽 |
油は既に,江戸の市民生活の必需品であることがわかる。その背景には,搾油の技術革新によって,灯油が特権階級の贅沢品ではなく,庶民でも普通に使われるようになったことがあった。行灯には,庶民階級では,魚油も広く用いられていた。魚油(イワシなど)は,享保9年に298樽の記録があるが,その後は,ごく少量かゼロとなっている。上記の西からの油に関東近辺から集荷した油を合わせると,大体10万樽前後の油が,江戸では消費されていた。1樽72リットルで計算すると,720万リットルの消費ということになる。当時の江戸の人口は,武家と町人がそれぞれ50万人ずつの計100万人と推定されている。当時ヨーロッパ最大の都市だったロンドンが50万人なので,実に倍である。これは,参勤交代の武士も含めての数だが,彼らが江戸市中で物資を消費することに変わりはない。720万リットルを単純に100万人で割ると7.2リットルで,妥当な数字といえる。もしも搾油の技術革新,原料革命がなければ,さらに上方から廻船が来なかったなら,市民はさぞ因っていたことだろう。これだけの需要があれば,油問屋の商売は充分に成り立つはずである。
江戸では,上方からもたらされた品物を「下り物」「下り荷」と呼んでいた。そこには,高度な技術による本物,高級品という意味が込められていた。京の絹織物などはその代表例である。「下り酒」「下り油」など商品毎にも呼ばれた。一方,江戸の近郊,関東各地から来た品物は「地廻り物」と呼ばれた。また「下り物」に対して「下らぬ物」とも呼ばれた。「下らぬ物」は加工度の低い一次産品が多かったことから,つまらないものを指して,下らないと言うようになったといわれる。
しかし18世紀後半になると,関東・東北では江戸向けの商品の生産が活発になり,江戸地廻り経済の発達を見た。それに連れて下り物の割合は減っていく。寛政年間(1789〜1801年)には,関東の綿の豊作のため,上方から仕入れた繰り綿が売れなくなるという事態が起こった。
そして関東の綿作の発達は綿実油の搾油量を増やし,幕府による油菜作付けの奨励は菜種油の増産をもたらし,文政年間(1818〜1830年)には,江戸の油の需要の3割近くを地廻り油が占めることとなった。
油以上に変化の激しかったのが醤油である。野田・銚子で江戸っ子好みの濃い口の醤油が発達した結果,安政3年(1856年)に江戸に入荷した156万5,000樽の内,下り荷は9万樽,わずか6%以下となっていた。
それでも地廻りの荷が一次産品中心であることに変わりはなく,下り物を高級品として尊重する気風は,江戸時代を通じて保たれた。
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