遠里小野のしめ木

  山崎に代わって,油の生産と販売の一大拠点となったのが,摂津の国遠里小野である。伝承によれば, 住吉大明神がこの地に鋲座したのは神功皇后11年 (神功皇后は日本武尊の娘)。以来,朝廷が様々な 行事をこの地で行ってきた。このうち,御鎮座神事(正月13日),祈年祭(2月),御祓神事(6月), 新嘗会(11月)など,灯火を用いる神事がある。神事に用いる灯明は,すべて遠里小野で生産され, このために拝受された土地は油田と呼ばれた。畝傍山の土で 灯台をつくり,ハシバミの実から搾油した。
 遠里小野の名前は,古くから記録に登場する。弘法大師空海が住吉大社に石灯寵を寄進した際, 遠里小野から灯明油を納めさせた。楠正成が遠里小野極楽寺の昆沙門天像に石灯籠を寄進した時も, 灯明油を提供させた。遠里小野の地から,油売りが諸国へ行商に出掛けた。だが,やがて大山崎で長木による 荏胡麻油の生産が始まると,山崎が優位に立ち,諸国に長木による製油が拡がった。 原始的な製法による,油分の少ないハシバミの搾油は,時代遅れになった。
 そこで遠里小野の若野某という人が知恵を絞り,油分の多い菜種の搾油に着手した。 その際,新しい道具のしめ木(搾木,揺押木)を発明した。しめ木は,巧みさで大いに長木に勝った。 一説には,住吉明神の神託により造られたとされる。
 遠里小野では,土地の人々が総出で菜種油の製造に当たり,大いに国を富ませた。 「油田仲間」と称して掛け札を出し,毎日油の価格を書き記すようにした。 「油茶屋」なるものを建て,油売りたちが集まって休んだり,油の値段を決めたりした。『搾油濫傷』には, 慶長17年(1612年)4月20日の日記として,油1升75文という内容が引用されている。
 その後しめ木は改良が加えられ,明暦(1655〜1658年)の頃には,諸国の搾油法も,長木によるものから,しめ木へと, すっかり切り替わったという。
 菜種の搾油が主流になったことは,戦国の世から太平の世に替わり, 油の大きな需要が生じる中での,必然的な流れでもあった。

※『製油録』の記述によると,菜種の歩留りは,土地の良い所で2割5分,土地の悪い所でも, 1割7分から2割はある。荏胡麻は1割5分から1割9分なので,この差は大きい。胡麻は,1割7,8分から 2割5,6分である。いずれの場合も,土地と肥料によって,その歩留りにはかなりの優劣がつくとみられた。