内海船と北前船
菱垣廻船と樽廻船の興隆は,大坂以外の廃人にも,海運業参加への意欲をかき立てた。その中でも,尾張国知多郡内海浦を拠点とする「内海船」は,菱垣廻船,樽廻船とほぼ同じ航路を就航し,大いに栄えた。
この内海船は,19世紀初頭から急速に勢力を伸ばし,幕末・維新期を頂点として,明治20年代まで続いた。菱垣廻船や樽廻船のように運賃で利益を得るのではなく,荷物を買い取って商売をする船団であった(買積船)。主に米,麦,大豆,肥料,塩,荒荷などを運んだ。内海船は,「戎講」と呼ばれる仲間組織をつくっていた。幕末には,戎講に所属する船は80〜90艘にのぼり,樽廻船をも次ぐ勢いを見せたのであった。これは従来の廻船の衰退と関係しているともいわれるが,その点については議論が分かれる。ただ,幕末には菱垣廻船の延着と運賃の高さが表面化し,荷主を悩ませていた。対する内海船は,速さと低料金で顧客を増やしていった。また,内海船は,関西での寄港は,大坂ではなく兵庫を拠点とした。大坂の商人は,幕府により制度面で保護されていたので,幕府公認の菱垣廻船,樽廻船を重視したが,自由な立場の兵庫の商人は,新興勢力の内海船を支持した。特に灘の酒造業は時代が下るほど栄えていき,内海船を発展させた。
兵庫を拠点としたのは,「北前船」も同様であった。北前船は,蝦夷地(現北海道)と本州を結ぶ交易の大動脈として,日本海を航行した。もともと蝦夷地との交易は敦賀や小浜の豪商が,手持ちの船で行い,松前藩の昆布・鮭・獣皮・米などを本州に運んでいた。次にこの航路を担ったのが近江商人で,慶長から寛永年間(1596〜1643年)には,開拓された西廻り航路を通って交易し,敦賀・小浜商人に取って代わった。近江商人達は,「両浜組」という仲間組織をつくって,松前藩から,通行税の免除などの特権を与えられていた。その頃急増した,にしんの魚粉の農業用の需要が,蝦夷地との交易を盛んにした。
両浜組が使っていたのは,共同雇用の「荷所船」であった。荷所船の船主は敦賀を拠点に荷所船仲間をつくり,両浜組に完全に従属していた。
その後,宝暦〜天明年間(1751〜1789年)になると,蝦夷地との交易による利益を当て込んだ各地の新興商人が次々に廻船業に参入したため,両浜組の地位が揺らぎ,構成員の撤退が相次いだ。こうなると,両浜組に依存していた荷所船仲間には死活問題である。そこで船主達は組織から独立し,内海船と同様の買積船の商売を始めた。これが,いわゆる北前船の始まりである。北前船は,売り先として,大坂の問屋商人を確保し,蝦夷地のにしん粕を大量に運んで,利益を上げた。そして文化4年(1807年),蝦夷地が幕府の天領となると,松前藩と密接に結びついていた近江商人の地位は,さらに低下したのであった。近江商人のうち,財力のある家は手船を持って交易を継続し,そうでない家は,北前船に依存することとなった。かくして力関係が逆転し,北前船が蝦夷地交易の中心となったのである。北前船は,文化・文政期(1804〜1830年)を通じて増え続けた。船には,上り荷として米や海産物が,下り荷として木綿・塩・砂糖・酒・紙などの生活必需品が積み込まれ,南北を往復した。
内海船と北前船はともに,菱垣廻船・樽廻船のような運賃契約ではなく買積船方式を採り,かつ特定の問屋仲間に従属しない自由な運航形態だったために,経済の変化に柔軟に対応することができた。これら自由な新興の海運業の繁栄は,陸上輸送において,伊那の中馬が従来の伝馬問屋に取って代わった現象に比することができる。また内海船や北前船は,兵庫や神奈川といった,後に国際貿易の基地となる港町を拠点に選んでいた。その結果,開港後も生き残り,明治も半ば,全国鉄道網が整備されるまで,国内輸送の大動脈として機能し続けたのであった。
|