綿実油の改良
綿実油は,綿花の副産物である。木綿の栽培は,安土桃山時代より,畿内や三河を中心に盛んになり,大量の綿が江戸へ送られた。江戸では綿を用いた衣服が普通に着られるようになった。木綿の産地では,綿実を搾油し,これも江戸へ送られた。
綿実油は,そのままでは赤黒く濁って,見栄えの良いものではない。そのため,最初は「黒油」あるいは「赤油」と呼ばれて,消費が伸びなかった。
ところが,偶然の事故から精製法が発見された。元和年間(1615〜1624年)のことである。大坂の搾油業,木津屋三右衛門は,ある夜,綿実油を入れた壷の傍らに,土蔵の上塗り用の石灰を積み重ねておいた。翌朝,油を見ると,色が抜けていた。石灰が崩れて,油の中に溶けていたのである。天の恵みと喜んだ三右衛門は,今度は意図的に石灰を混ぜ合わせ,透明な綿実油の製法を確立した。できた油は,灯の付き方も前より良かった。三右衛門は,他の油屋にもこの方法を教え,皆が石灰を用いることとなった。「白油」の誕生である。世間では,自油は種油(菜種油)より良い油だという評判が広まり,急速に需要を伸ばしていった。
新しい商品が拡大していく過程で,旧来の勢力との衝突が起きるのは,世の常である。後から見ると笑い話でも,その時の当事者達は,真剣そのものだ。
種油の搾油業者には,14人の談合頭がいた。寛文9年(1669年),この談合頭が,綿実油の製造・販売を停止させるべく,公儀に訴状を提出した。この中で,彼らは石灰を加えた白油を「眼毒油」と称し,この油火の光を見た人は,みな眼病を患としている。また,原料の綿実そのものの性質も寒冷で良くないとしている。
これを採り上げた大坂町奉行は,訴状の中に名のあった,白油生みの親の木津屋三右衛門や松屋弥三右衛門(惣右衛門とする資料もある)といった人々を召しだし,事情を開いた。すると松屋が,先般飢饉の際に非常食として出回った「穀団子」が綿実からつくったものだったこと,蒟蒻は石灰を混ぜてつくることなどを反証として挙げ,白油を眼毒油とする根拠のないことを力説した。これを開いた町奉行は,もっともであるとし,種油14人衆の訴えを退けた。一説には,この時の町奉行は,油問屋の振興に熱心だった大坂東町奉行・石丸石見守定次だったという。かくして綿実油は,「世上の重宝」と呼ばれ,安心して使われるようになった。
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