問屋の成立
問屋という呼称が一般的になったのは,江戸時代に入ってからのことである。元和年間(1615〜1624年)には,既に油・木綿・木材・生魚・干鱈などの問屋が発生していた。大坂では元和2年に油問屋加島屋三郎右衛門の名が見られる。
大坂では,江戸時代の中期に問屋の専業化が進み,中でも米問屋・炭問屋・綿問屋・木綿問屋・油問屋などは,軒数・規模ともに発展を見た。だが初期においては,まだ未分化の総合問屋が主流で,元和から慶安にかけての黎明期には(1615〜1652年),専業問屋はまだ少数派であった。当時の問屋の主要形態は,松前問屋,薩摩問屋,土佐問屋といった,特定の地域から送られる多種類の物産を総合的に扱う「国問屋」と呼ばれる店だった。専門問屋の場合は,売り先が大坂・京の近在に限られていた。
しかし時代とともに大都市に安定した需要が生まれ,それぞれの商品の流通量が増加し,収拾過程と分散過程が長く多岐に渡るようになると,自然に商品毎の卸売業が発達することとなった。
延宝7年(1679年)刊の『難波雀』には,問屋の総数378軒,業種は58種類と記されている。そして元禄10年(1697年)刊の『国花万葉記・五畿内摂津難波丸』には,問屋総数826軒(江戸口酒屋2,218軒除く),業種62種類となっている。既に扱う商品とサービスが完全に専業化しており,かつ仲買も分化していた。今日の問屋と大きく異なるところは特にない。
この時期には,上に挙げた最重要産品に加えて,生魚・塩魚・八百屋物・薪・鰹ぶし・布・木わた・たばこ・塩・鉄・木蝋など,日用品のほとんどに関して専業問屋が誕生した。販売先も全国が対象であった。一方,京では高級衣料や美術工芸に関する問屋が,江戸では墨筆・櫛・きせる・小間物・土人形・畳表など,贅沢品の問屋が発達した。京も江戸も,生活必需品の供給を大坂に依存していた。このことが,菱垣廻船,樽廻船の発達を支えた。
問屋の商売のやり方も変貌を遂げていた。初期には,各地の荷主から送られる依託荷物の引受・保管・販売に当たる荷受問屋だけだったが,元禄時代には,自分の裁量で,売れそうな品物を生産地に発注し,買い付けに出向く仕入れ問屋が増えていた。仕入れ問屋は,生産者に前金を払ったり,産地に「買宿」と称する仕入れのための出張所を設けるなど,生産者の取り込みでも競争した。その結果,古い荷受問屋に留まった店は衰退を余儀なくされ,仕入れ問屋が,今日まで繋がる問屋の形として,市場の利こ成立したのである。
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