十組問屋の成立

  初期の江戸の有力商人達の多くは,市場性を見込んで上方からやって来た人々であった。彼らは,利益を守るために,次々に仲間を結成していった。その中でも最もカを持っていると言われたのが,「江戸十組問屋」である。
 江戸十組問屋の誕生については,最大の顔役,大坂屋伊兵衛の覚書が残っている。それによると,問屋同士の結束を促した背景には,当時の菱垣廻船は,難船が多かったことがある。難船そのものは天災だが,問題は,むしろ難船に付き物の人災の方であった。船頭や水主の中には欲の皮が突っ張った者が大勢いて,難船の度に,港の関係者と共謀して,荷物を横領した。甚だしい場合は,無事に運航しているのに難船を装い,荷物を掠めとった。分けても,貞享3年(1686年),小松屋仲右衛門の船が相州沖で暴風により破船したとされる事件は,船頭が斧で船底をたたき割り,積み荷のほとんどを盗み出すという悪質なものであった。これでは,荷物の受け手は丸損である。
 そこで十組の問屋が結集し,組毎に行司を定めて,船問屋を通さずに,直接菱垣廻船を支配することとなった。元禄7年(1694年)のことである。この時集まったのは,次の各種荷受問屋十組だ。各組が取り扱う主な商品を( )内に記す。塗物店組(塗物類),内店組(絹布・太物・繰綿・小間物・雛人形),通町組(小間物・太物・荒物・塗物・打物),薬種店組(薬種類),釘店組(釘・鉄・鍋物類),綿店組(綿),表店組(畳表・青筵,河岸組(水油・繰綿),紙店組(紙・蝋燭),酒店組(酒類)。この時,油問屋も,河岸組に編入された。
 大坂屋伊兵衛は通町組の商人で,発起人である彼は,大坂の鴻池組に交渉して,菱垣廻船側が船の手配を拒否した場合,鴻池の船を回す約束を取り付けた。鴻池では,もしもの時は手船を100艘手配し,それで足りなければ150艘を新たに建造すると請け負ってくれたという。かくして江戸における菱垣廻船の十組問屋は,すんなりと成立した。
 十組問屋が難船をめぐるトラブルに神経質になっていたのは,問屋のあり方が,元禄期までに,ほぼ変わっていたからだ。以前の,ただ上方からの荷を待つだけの荷受問屋ならば,揖害の負担は,送り手の責任となるが,前節で見たように,この時期の問屋は,才覚,思い入れで,どんどん品物を発注する,仕入れ問屋になっている。この場合,船が大坂を離れた瞬間,荷物の所有権は買い手に移るというのが,当時の慣習だった。当然,損害があった時も,買い手の負担となる。彼らが対策を急いだのは,当然のことであった。そして,江戸の十組問屋に対して大坂から品物を送るのが,二十四組問屋であった。
 十組問屋は,仲間全体を束ねる「大行司」を定め,一組が4カ月ずつ,船手全ての支配を順番に勤めた。毎年正月と9月に寄合を開いて,当番行司を決めた。海損勘定の振分散の時には,その年の行司が支配した。三極印元という係は,船具や船足(吃水線)を調べて焼印を押した。
 なお,十組のうち,最初に集まった人々の中には,河岸組の名はなく,代わりに米問屋が入っている。米問屋といっても,当時の資料から推測すると,実際には米・油・綿などを扱う諸色問屋を指すものとみられる。諸色問屋は荷受け問屋であって仕入れ問屋ではない。米問屋4軒の内,鎌倉屋市左衛門は廻船問屋に転身したことがわかっているが,あとの3軒は,河岸組の油仕入れ問屋に転身したことも十分考えられる。
 今日に伝えられる十組問屋のうち,水油問屋,色油問屋として名前が出てくる商人は,以下の通り。
 十組問屋(「江戸買物独案内」より)桝屋源之助(長谷部吉右衛門商店),井筒屋善治郎(小野善助,後の小野組),大坂屋孫八(松澤孫八商店),駿河屋長兵衛(藤田金之助商店)。下り水油問屋・絹川屋茂兵衛(小網町三丁目)。地廻水油問屋・三河屋長九郎(四ッ谷伝馬町),山崎屋勘兵衛(上野北大門町),池田屋喜右衛門(芝二本榎),笹屋豊次郎・直三郎(萩原利右衛門商店)。後に油商組合の頭取となる岩出惣兵衛は当時は肥料問屋として名を連ねている。水油仲買・井筒屋伝右衛門(田所町),枡屋喜右衛門(長谷部喜右衛門)(大伝馬町二丁目)。これらの問屋が今日の油市場営業人に連綿とつながっている。