地廻りの油
関東で搾油が盛んになったのは,畿内よりもかなり遅く,18世紀後半頃から徐々に伸びていった。それまでは生産性の悪い荏胡麻や胡麻を細々と搾油していたが,下り油の菜種油と綿実油が市場の大半を占めるに至り,幕府の奨励もあって,これらの原料を栽培し,油の量産体制を整えることとなった。
関東でも綿作は17世紀から行われていたが,搾油に結びつかなかった。宝暦4年(1754年)に江戸で綿核問屋の公認を願い出た姓不詳の清兵衛という人の願書が残っている。そこには,関東では綿核(綿実)は18〜9年前までは捨てられていたが,近年になって上方で油の原料に使われていることを知り,買い集めて江戸に出荷するようになったとある。
明和4年(1767年)3月,幕府は綿実買問屋2軒を認可し,そこから足柄郡早川村(今の小田原市)に送って搾油し,江戸油問屋に売ることを認めた。明和4年といえば,関西では大坂以外の搾油業を否定する御触書が出された翌年であり,比べて関東がいかに遅かったかがわかる。この早川村の綿実油は,灘と同じ水車搾りで量産が可能であった。同時期に,筑波山麓でも,井上善兵衛が水車搾りを始めている。真壁では,木村六郎兵衛が水車搾りを始めた。井上家は,自油をつくるため,関西の職人を雇った。この職人は石灰を用いる技術を教えなかった。そこで善兵衛の弟に節穴から覗き見させて製法を盗み出し,以後は関東の搾油業者も,上質な白油の量産が可能になったという。井上家の水車は,最初一丈六尺だったが,その後一丈八尺,二丈一尺と寸法を大きくしていき,小道具も工夫して増産に励んだ。
菜種に関しても,米の裏作として作付けが増加し,19世紀に入ると,農村で人力による水油の生産が増えていった。油の何割かは北開東や武蔵で養蚕・製糸・織物業などの夜なべ仕事の灯火に使われたが,大半は江戸に売られて消費された。「地廻り油」の台頭である。
幕府にしてみれば,地廻り油が増えた方が,上方が価格操作をやりにくくなり,価格統制に好都合である。したがって西日本に対する時とは対照的に,関東の搾油は大いに奨励した。かくして下り油の地位は低下の途を辿っていった。
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