享保の改革の問屋政策
正徳6年(1716年),御三家の一つ,紀州徳川家出身の徳川吉宗が,八代将軍に就任した。吉宗は,将軍の座に就くと同時に,いわゆる享保の改革に着手した。享保の改革は,一言でいえば,幕府の独裁体制を確立し,財政を再建するのが目的だった。倹約令を発し,相対済まし令で金銭貸借に関する訴訟を停止した。しかし商業に関しては,徒らに押さえつけるのではなく,商人のカを充分に認めた上で,彼らを幕府のカの及ぶ範囲に取り込み,統制する政策を取った。それが株仲間の公認となり,大坂堂島の米市場の公認となった。吉宗は,物価,特に米価を統制して,米将軍と呼ばれた。当時は米価安の諸物資高という現象が起きて,石高制そのものの危機が叫ばれていた。石高制経済にあっては,領主は米を売って貨幣を入手し,その貨幣で諸物資を買う。すなわち,米価に諸物資の価格が追随しない限り,領主経済は成り立たない。事実そうなっていたので,元禄期までは,米価をいかにして引き下げるかが幕府の主要経済対策であった。しかし商業の発達とともに経済構造が変わった。
宝永3年(1706年),江戸市中の豆腐が非常な高値を続けた。時の江戸町奉行は豆腐屋全員を呼び出し,原料大豆が大幅安になったにも関わらず,豆腐の値段が下がらない理由を問いただした。だが納得のいく説明が得られないので,豆腐の大幅値下げを命じた。多くの豆腐屋は渋々値下げに応じたが,7軒の豆腐屋が苦塩や油糟の高値を理由に応じなかったので,怒った町奉行は,この7軒に営業停止を命じた。いったんは幕府の目論見通りになったが,これを機に,幕府は個々の商品毎に物価対策を打たなければならなくなる。
吉宗は,米価と諸物価のバランスの是正に必死になっていた。幕府の財政は火の車で,旗本・御家人は,人事・待遇面の引き締めの実施により,生活に窮していたのである。
そこで,吉宗の腹心,江戸南町奉行・大岡越前守忠相は,諸物価の引き下げに乗り出した。大岡は,吉宗の意見具申の求めに応じて,享保8年10月,相役の諏訪頼篤と連名で,七箇条から成る「物価引き下げに関する意見書」を提出した。
当時は,談合による価格操作が,物価上昇の原因となっていた。ここに,油問屋が標的にされる。
享保9年(1724年)のことだ。この年,3月25日〜26日にかけて10樽につき22〜25両だった油の値段が,3月27日〜4月8日の間に,27〜37両3分という異常な値上がりをした。大岡は,油問屋達を役所に呼び出し,詮議をした。その結果,油問屋達が価格操作をして「過分之利得」を得ていたことが判明したので,その分を過料として没収した。処分を受けたのは,油問屋17名,仕入れ問屋24名の計41名。彼ら全体で1,842樽を販売し,1,035両2分と銀20匁6分の超過利得を得ていた。これは,代金の18%強に相当した。
幕府は,搾油業者が西国に集中し,流通過程での独占性の強いことが価格操作を容易にしているとみて,関東近辺での菜種の作付けを奨励した。そして売り先を保証するため,享保12年(1727年)5月,中橋広小路の大和屋七郎左衛門を,一手買受人に指定した。最初のうち農民達は,新たな税を課されることを警戒したため,菜種栽培には不熱心で,お義理に作付けをしても肥料はやらない例が多かった。だが幕府の努力が徐々に実を結び,菜種の栽培が増えていったことで,やがて「関東地廻り経済圏」を育てる出発点になったのである。
ところで,「江戸積油問屋」の章で引用した大坂町触書の,大坂から江戸への出荷量のリストは,大岡越前の依頼によるものだった。当初,大岡は,大坂町奉行に対し,諸国と江戸へ送った品物の量を,全て報告するように要求した。対する大坂町奉行の返答は,煩雑すぎてできないというもの。江戸町奉行が,諸国への出荷量まで調べるのは,越権行為と判断し,面白くなかったとみられる。そこで大岡は妥協し,主要11品目の江戸への出荷量に限定,大坂もこれを了承した。おかげで,今日我々は,先の油の享保期の流通量を知ることができる。そして大岡は,問屋の組合強化策に乗り出した。先の「物価引き下げに関する意見書」は,当時としては流通革命ともいうべき内容で,幕府は,あまりの大胆さに驚き,一度は実現不可能として却下した。しかし,大岡は再三にわたっ吉宗に詰め寄り,執念で許可を得た。
大岡が意見書の中で最もカを入れていたのが,幕府主導による問屋仲間の結成である。第一条には,炭・薪・酒・醤油・塩など生活必需品を扱う商人は問屋・仲買・小売まで仲間をつくらせ,相場書を提出させ,もし不時に相場が高くなった時は仲間で吟味して高くなった理由を提出させる。江戸でわからない時は京・大坂へ人を寄越して調べさせるとしている。
彼が目を付けたのは,十組問屋であった。海千山千の廻船関係者達と渡り合い,自分達の利益を守り通した十組問屋。これを拡大し,統制することで,物価を統制することができる。こう考えた大岡は,享保9年5月12日,14日,16日の3回に分けて,品目にして22種類に及ぶ問屋を,町年寄奈良屋に集めた。ここに,十組問屋は,実質的には,二十二組問屋となった。22種類の内訳は,真綿・布・繰綿・紬・晒・ほうれい綿・木綿・米・水油・蝋燭・蝋・魚油・茶・醤油・薪炭・たばこ・味噌・酢・塩・酒・紙・畳表となっている。この組織は,株仲間へと発展し,問屋・仲買・小売りというわが国流通機構の根幹が確立していく。
大岡の意見は,結局は全面的に受け入れられ,この年,「物価引き下げ令」として発布された。2月15日,幕府は「物価引き下げ令」を江戸・京・大坂・奈良・堺を初めとする町奉行に出し,代官・領主にも,諸国で製造している品々の元値を安くするように命じている。その中には「酒・酢・醤油・味噌の類いは,米穀を原料にしてつくるものであるから,米の値段に準じて値動きすべきは当然である。また,竹・木・炭・薪・塩・油・織物などは,それらをつくる職人の“賃銀は飯米”を元にして割り出すものであるから,それらの値段も米価に追随して当然」とある。値下げしない者は3月1日を期して詮議にかけ,違反者は処罰するとある。これほど,幕府の姿勢は厳しいものであった。
しかしながら,大岡越前は,この後,時代の孤児となっていく。商人の不正を摘発することに性急だった大岡は,いつしか商人のカが武士を凌駕したことに気付かず,商人との協調路線を選んだ将軍・吉宗によって,町奉行を解任された。時代は,確実に変化を続けていた。
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