開港と問屋仲間の終焉
嘉永6年(1853年),米国東インド艦隊司令長官ペリーが,米国大統領の国書を携えて,浦賀に来航した。これを境に,日本は未曾有の大動乱に突入していく。翌嘉永7年にはペリーが再来日して日米和親条約を締結。安政5年(1858年)には,就任後間もない大老・井伊直弼が米・蘭・露・英・仏の五ヶ国と修好通商条約を締結,国内の反対を押し切って,翌安政6年,横浜・長崎・箱館(函館)を開港した。ここに,226年間に渡って続いた鎖国が幕を下ろしたのである。徳川幕府の威信は地に落ち,8年後の慶応3年,大政奉還に至った。
開港の少し前から,問屋仲間には崩壊の兆しが見えていた。遠山景元の情熱でようやく形になった復興令が,問屋の復活に止まり,株仲間の復活には遠い内容だったため,昔日の繁栄を取り戻すのは元々無理であった。木綿問屋仲間の場合,古組を構成していたのは,近江屋以外は,白木屋,越後屋,柏屋,大丸屋といった,江戸有数の大手ばかりであった。そして古組にも新組にも属さない問屋が勢力を持ち,産地直売の「地元買い荒らし」を行って,旧勢力の脅威となっていた。
幕府の方針もどっちつかずで,古組に相当する売り上げのある問屋は古組への加入を認めることにしたので,水油問屋の松居久左衛門と呉服・木綿問屋の佐野屋長四郎の二大新興問屋が古組に編入された。このことは古組衆に相談なく決められたので,古組仲間は,幕府に激しく抗議した。松居は,文久3年(1863年),禁制の浦賀への荷揚げを行い・古組の叱責を受けたが,翌元治元年にも大坂へ上って地元買い荒らしをしたため,仲間から町年寄に除名願いが出ている。一方,大手でも西川が産地に買い次ぎのための出店を設け,特定の買い次ぎ問屋と独占契約を結ぶなど,仲間とは独立した動きをしていた。このように,開港前には,問屋仲間は内部から崩れようとしていた。
そして安政6年の横浜開港に際し,幕府は,江戸の商人に,横浜への出店を促した。しかし全く未知数の西洋人との貿易に多くの商人は尻込みし,近江系を中心にわずかな出店に届まった。横浜で活躍したのは,開港以前から店を出して地廻り産品の国内取り引きをしていた新興の地方商人達であった。彼らは,外国人との貿易により,江戸と大坂に取って代わる,新しい商業の中心地を,短期間でつくり上げていった。輸出される商品は,江戸の問屋を経ることなく,産地から直接横浜に送られた。
油については,ごく一時的に生糸に次ぐ重要輸出品となった。開港の翌年,万廷元年には,上海向け中心に10万樽が輸出された0江戸の総需要量が14万樽なので,一時はもはや国内の庶民は油は手に入らないと言われたが,すぐに輸出は激減し,文久3年には輸出はほとんどなくなった。それでも開港による油の高騰は抑えられず,大坂では,安政6年に一石当たり450匁以下だった菜種油の値段が,慶応3年(1867年)には2,551匁となった。
幕府は,諸物価の高騰を抑制し,江戸の商品市場を保護するために,万延元年(1860年),「五品江戸廻し令」を発布した。これは,生活必需品の中で最も重要な五品目である雑穀・水油・蝋・呉服・糸について,必ず江戸の問屋に回すことを求め,産地から横浜に直送することを禁じたものである。江戸でこれらを扱うものは,米問屋・水油問屋・水油仲買・蝋問屋・呉服問屋・糸問屋と定められた。問屋では,江戸で消費する分を確保してから,横浜に送ることとした。
だが時代の流れを強引に戻すこの法令は,横浜商人ばかりか,身内の神奈川奉行・外国奉行からも反対された。そして江戸の問屋仲間は産地との関係が疎遠で,保護されても,うまく商談ができなかった。そのため元治元年(1864年)には,早くも実質的な廃止に追い込まれた。
その後慶応4年(1868年),幕府は,改めて江戸の問屋仲間から身元金を徴収し,一人ずつに鑑札を与えた。しかしこれは事態に何の変化も与えず,幕府が財政難のために徴収した御用金に過ぎないと言われた。株仲間の勢力が衰え,幕府は一人一人からの御用金に頼らざるを得なくなっていた。横浜の貿易が栄えるほどに江戸の問屋仲間は衰微し,もはや建て直しは不可能になっていた。遠山の金さんの意見を全て容れず,問屋の復興はしても問屋仲間の復興が不完全だったことが,ここへ来て響いた。江戸の経済を支えていた問屋仲間を,天保の改革以来,軽視してきたことが,江戸の経済を壊し,幕府自身の首を締めることになった。諸物価の高騰は,開港こそ諸悪の根源であり,それを行った幕府は倒すべきということで,攘夷派に恰好の口実を与えた。かくしてわずか数年で幕府は瓦解し,幕府とともに歩んで来た問屋仲間は,自然消滅し,約二世紀にわたる使命を終えたのである。
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