問屋と口銭,丁稚制度
問屋は,口銭によって儲ける。この口銭という言い方は,この時代,既に一般に使われていた。
口銭の語源については,説が分かれている。一つは,間銭から門構えが脱落して口銭となったというもの。もう一つは,取り引きに当たって“口入れ”し,弁舌を駆使したから口銭というものである。当初は「くちせん」「くちぜに」と読まれることもあったが,次第に「こうせん」に統一された。当時,利息のことを“子銭(こせん)”と呼んでいた。口銭と非常に紛らわしいので,当時の文献には,「利息をコセンと云ふは口銭の字には非ず,子銭なり即ち利息の息の字なり」の記述がある。これをあながち誤用と言い切れないところに,時代の空気が漂っている。
口銭の中には,運送料・保管料・宿賃・利子などが含まれていた。中世の間丸などと異なり,問屋は単なる物流の拠点などではない。問屋は,自ら利益を生み出す存在である。
この時代,社会の最上層にいる武士達が,儲ける感覚を持った下の身分を見下している間に,商人達は,合理的精神を培い,儲けることを恥と思わず,あらゆる工夫を駆使して利潤を上げる技量を磨いていった。この時代,商人の儲ける知恵を表す言葉に,“才覚”“思い入れ”がある。
問屋で言えば,先売り先買い,延べ売り延べ買いといった投機的商行為によつて,利子を稼ぐ。基本的には,現代の商業を支える営利技巧は,この時代には出揃っていたと言える。
しかし一方では,仲間の中では,定式口銭,定方口銭が定められ,いわば公正価格の観念が確立していた。他者を圧迫してまで儲けようとするのは,恥とされた。そうした中から,“分をわきまえる”“程を知る”といった庶民の道徳が確立されていった。
豪商と呼ばれる家系ではいずれも,人間としての礼節を忘れてあこぎな稼ぎに走ることを戒め,家訓や商別を定めて,日々声に出して読ませ,家人や使用人に徹底させた。その背景には,幕府によって深く浸透した儒教の教えがあり,石田梅岩が創始した平易な庶民道徳,石門心学の影響も大きかった。使用人は,自分もいつかは独立して商家の主となることを夢見て,日々の勤めに励んだ。晴れて独立した奉公人は,別家と呼ばれ,主家の親族である分家とともに同族団を形成した。別家の発言権は強く,主人に不行跡がある時は意見することが認められていた。それでも改まらない場合は,分家,別家,手代が集まって相談し,主人を隠居させることが定められていた商家さえあり,実例も少なくなかった。江戸時代の商家は,丁稚制度によって支えられていた。手代から支配人を経て別家になれる者は,ほとんどが子供の頃から丁稚として住み込みで奉公していた者であり,元服以後に雇われた者は,ほとんどの場合,出世することはできなかった。丁稚として奉公に入るのは,12〜14歳の少年で,無給で休暇は盆と正月のみだった。丁稚は17〜18歳で元服して手代になる。手代になると,自分の見込みで商売をすることが許され,給金も定まる。丁椎と手代の期間は大体15〜20年で,この年季奉公を終えた者が,ようやく番頭になれるのである。
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