木綿問屋
わが国における綿作の始まりは,廷暦18年(799年)に,三河の国に漂着した天竺の青年が,綿の種をもたらした記録がある。この時は,九州を中心に綿作が始まったが,日本の気候に合わず,90年ほどで絶えてしまった。本格的な綿の栽培が始まるまで,その後800年の歳月を待たなければならない。再度の渡来は明応・永正年間(1492〜1520年)だったが,全国で生産されるようになったのは,ようやく16世紀後半,江戸時代を目前に控えた時期である。
江戸時代も元禄を過ぎたあたりに,最初に大産地となったのは畿内,次いで伊勢・三河だった。畿内の綿作は,秀吉の時代に大和の国で始まり,その後和泉,河内,摂津,山城へと広がっていった。これと連動して,副産物である綿実の油が,産地の近辺で生産されるようになった。
寛永年間(1624〜1643年),京橋十一丁目に,青物市場や魚市場と並んで,綿を取り引きする市場が開設され,近在の綿商人が集まって,売買を行った。やがて彼らは綿問屋として定着していく。正保年間(1644〜1648年)になると,繁栄に連れて京橋の地は手狭になり,綿問屋17軒は,相生西ノ町に移転した。その際,三カ所に分散したので,三所綿問屋と呼ばれた。
綿作に向いていない東北では,綿実を取り去った後の繰り綿を上方から取り寄せて,木綿を生産した。これらの商いは,関東商人達が,大和や摂津の繰綿商人に書状で注文し,仕入れ金を送っていた。万治年間(1658〜1660年)には,大坂に,江戸及び北陸に綿を販売する江戸綿買次積問屋仲間が誕生した。木綿問屋の場合も,油問屋の項に登場した名町奉行,石丸石見守走次が積極的な仲間作り政策を展開し,江戸綿買次積間屋12軒を認可した。
江戸は霊巌島に,東京油問屋市場の前身が誕生したのも,万治年間のことだつた。この17世紀半ばという時代は,大坂から江戸へ,商業の大きな流れが形成された時期だった。
江戸で上方から着いた繰り綿を受け取り,東北に回送するのは諸色問屋の役目であった。貞享4年(1687年)に刊行された,当時の江戸案内記である『江戸鹿子』には,米・油・綿を扱う諸色問屋14軒が挙げられている。主だった商人としては,鎌倉屋市左衛門,結城屋太郎兵衛,久保寺喜三郎といった人々がいた。鎌倉屋は,下館の中村兵左衛門家,真壁の中村作右衛門家といった有力な木綿生産者の,総代理店として,大坂から繰綿を仕入れていた。だが,諸色問屋は,商業が細分化していく過程の中間形態であった。18世紀に入ると,彼らは専門問屋に地位を奪われていく。鎌倉屋も,享保期には,廻船問屋に商売替えした。
江戸では,大伝馬町一丁目が最も古い木綿問屋の町として知られている。江戸の城下町が出来た頃から,三河の商人,久須木七左衛門・赤塚善右衛門・久保寺喜三郎・富屋四郎左衛門らが今の和田倉門外の宝田村で伊勢・尾張・三河の特産物を売っていたが,江戸城の拡張で移転させられ,代わりに与えられたのが,大伝馬町であった。その後,伊勢・尾張・三河の商人がこの四人を頼ってこの地に集まったが,中でも伊勢商人は早くから進出し,地盤を固めた。それは,伊勢・三河が古くから綿織物の産地として知られ,特に松坂木綿が最上の銘柄とされていたことによる。
生活水準が向上した大消費地,江戸では,それだけ木綿の需要があり,これが三河地方一帯では,綿花の栽培の拡大を促した。西から始まった綿花づくりは,やがて武蔵,上野,下野,常陸,甲斐の国々へと拡がっていった。前節で見てきた綿実搾油の発展がもたらされたのである。
日本の木綿産業は,開港後もすぐにはすたれず,関東圏では,油の山工場への供給も続いていた。しかし明治29年,輸入綿花の関税が廃止されると,外国産の安い綿花による大量紡績時代が始まり,江戸時代の花形産業だった木綿づくりは,一つの役目を終えた。一方で,モスリンが輸入され,普及をみると,新業種・洋反物問屋が興隆していった。大阪では,明治6年,株仲間の廃止を受けて,三所綿問屋,綿買次問屋,三郷綿仲間の合同による綿商組合が結成された。これを継承して明治18年(1885年)には,大阪綿南問屋仲買組合が結成されている。これは,大阪油取引所(明治26年)より8年,東京油問屋市場(明治34年)よりも16年早い。大正時代には,重要物産同業組合として認可されている。
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