幕末から維新の混乱
幕末から明治にかけての江戸の混乱は大変なものであった。幕府瓦解によって,江戸全体の60%を占めていた武家地から武士の姿は消え,空き家同然となった。商人も武家地における商売が成り立たずに次々と閉店する一方,武家に対する掛け売り代金の回収もできず,多くの大店が資金繰りに苦しむこととなった。物価も高騰した。安政6(1859)年から慶応3(1868)年までの9年間に,米は3.7倍,水油は4倍にまで跳ね上がり(江戸諸品相場表・水油は大坂水油の最高相場で比較)庶民の暮らしを直撃した。明治政府による新しい秩序が行き渡るまでには数年という時間がかかり,質屋,米屋,酒屋など富商の打ちこわしや略奪が頻繁に起こり治安が悪化した。
こうしたなか近代国家への脱皮を急ぐ明治政府は,問屋の特権的地位を剥奪し,自由競争を導入することで経済の活性化を図ろうとした。明治元年5月に早くも商法司は「商法大意」を布告して,独占制度の撤廃を図った。その後,一時的に問屋仲間を認めたり,同業者の組合組織化を積極的に働きかけるといったこともあったものの,自由競争の流れははっきりしており,2度と江戸時代のような株仲間的な組織が許されることはなかった。
問屋の特権をなくし,国内の経済活性化を図る一方で明治政府が取り組んだのは,築地居留地の外国貿易商による差別条約を背景にした不当とも思える巨利に制約を加えること。そのため,東京南は政衛と相談の上,明治元年11別こ豪商三井八郎衛門を促し,築地の鉄砲洲に「貿易商社」を設立させ,諸問屋をここに糾合することとした。油問屋もこれに加わることとなった。築地貿易商社は,貿易商の組合的な性格と同時に,商品の標準相場(米,油など)を確定し,商取引の円滑を図るという目的を持っていた。 この貿易商社はわが国で初めての株式会社として設立され,主として大間屋から加入者を募り,その加入者の身元金(出資金)によって運営された(加入者は鑑札をもらい,身元金は後述の「為替会社」に預けられた)が,株式会社に対する理解が行き届かず,多くの問屋が尻込みし,通商司が半ば強制的に出資者を募るといったことも行われた。
東京府の官吏は有力問屋を“御白州”に並べ,名字帯刀を許す代わりに出資するよう,また総頭取と肝入りになるよう説得した。しかし問屋の理解を得られなかったため,最終的には出資しない者は蝦夷地に送るといった脅迫的な言辞すら使って出資させたという(『日本の会社企業発生史の研究』菅野和太郎著)。問屋からすると,御用金を徴収されているような気分だったようだ。
外国貿易商は米,油,洋銀などの限月取引を行っていたが,これらの取り引きは現物がほとんど動かない空相場で,もっぱら相場の上下による巨利を博することを目的としていた。こうした取り引きに習熟した外国商人が思いのままに相場を操る弊害は大きく,明治政府と東京府は貿易商社にも限月商いを許可することとした。
貿易商社は国策会社として,ほどなく「通商会社」となり,明治3年12月25日に「東京商社」と改名した。全国に同じような商社が明治政府の積極的な後押しによって設立された。しかし,前述の如く加入者を半強制的に募ったことにみられるように,事業に対する積極的な賛同を得たとは言いがたく,出資はしても自分達の事業という認識は薄かったようだ。
東京商社は米と油の限月取引で賑わったというが,明治9年8月に米商会所条例に従い米商会所となった。その後,取引市場として競合関係にあった中外商工会社と合併し東京商品取引所となる。
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