迷走繰り返した取引所
この後,大阪における油の取引所は複雑な様相を呈することとなり,明治8年からの10年間に“油商社”,“油商所”,“油商集会所”,“油会社”などが設立されては姿を消すといった目まぐるしさであった。そして明治26年2月,帝国議会において取引所法が通過したことにより(株)大阪油取引所が設立されることとなった。
2月24日,油取引所設立に関する有志協議会が東区唐物町1丁目の船山楼おいて開催され,油問屋の代表15名が出席し,池田半兵衛を座長に選んだ。池田半兵衛は,大阪油取引所の初代理事長となる。池田半兵衛の店は東区釣鐘町にあり,間口15間,奥行き20間という広さだったという。当時はまだ大阪油問屋の中で中位の位置に止まっていた吉原定二郎商店からは,初代定治郎(吉原製油創立者,吉原走治郎の養父)の長女千代が出席したという記録が残っている(『大阪油取引所史』)。
大阪油取引所は東区豊後町91番地屋敷を借人れ、12月1日から創立事務所として活動を開始した。資本金は総額5万円として、株式総数は2,500株が発行された。売買物件は菜種油(別上物,上物並物)と綿実油の合計4品とされた。
その後、明治40年前後には大豆油も取り扱いたいということで陳情を行ったが、結局認可されなかった。
大阪の油問屋は江戸時代に全盛を誇り、明治に入ってからもわが国の油脂販売をリードしたが、大豆油がナタネ油を凌駕するとともにその影響力は薄れ、メーカーからの仲買への直販売が増えたことなどにより、有力大卸のほとんどは姿を消し、現在も残っているのは、吉原商店や(株)マルキチ(木村商店)などを数えるのみになっている。
東京,大阪以外にも明治26年3月の取引所法公布を受け、滋賀県大津に「近江米油株式取引所」、三重県四日市に「四日市米油株式取引所」が設立されている。名古屋、新潟、土崎、半田にも同様な油取引所が創立されたことが、『滋賀県史』、『四日市市史』、『愛知県史』などに記録されている。
明治45年7月30日に明治天皇が崩御し、この日から大正となった。
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