石油と油問屋
江戸時代の行灯が急速にランプに切り替わるとともに,植物油もそれまで灯火用として維持してきた位置を石油に譲り渡すこととなった。こうした大きな変動の中で,油問屋も変化を迫られ,変身できなかったところは市場から消えて行った。江戸時代から続いた多くの大店が変化に適応できず消え去る一方で,新しい活気のある油問屋が誕生し,植物油とともに石油や石油関連製品(ランプなど)も積極的に扱い,成長への基盤を整えていった。
わが国への灯油輸入が記録として残っているのは明治元年の121klというのは前述した通りだが,これらはほとんどが米国からの輸入で,明治21年にロシアから灯油が輸入されるまでの20年間は,ほぼ米国の,それもスタンダードオイル・カンパニー・オブ・ニューヨーク(略称:ソコニー)に独占されるという状況だった。ソコニーの灯油は販売会社によってそれぞれ商標がつけられ,チャスターは塔印,コメットは関東では箒印,関西では稲印と呼ばれていた。
そして,明治21年からの20年間は日本市場を巡って海外資本の競争が繰り広げられることとなるが,電灯が普及し始めた明治42年以降は灯油の輸入が減少傾向を辿る一方,自動車の登場とともにガソリンの需要が急速な成長を見せるのである。
明治21年にロシア灯油を初めてわが国に輸入したのは,横浜居留地のジャーデイン・マセソン商会だが,その後明治26年にはサミュエル・サミュエル商会が神戸に油槽所を建設してバルクでの輸入を開始した。これ以降,スタンダードオイルの木箱に詰められた灯油と,バラ積みのロシア灯油の本格的な競争となったのである。
サミュエルは明治30年,東洋市場にロシア灯油を販売する商社を糾合しシェル・トランスポート・アンド・トレーデイング社を設立すると同時に,サミュエル商会の石油部門を吸収した。わが国でもサミュエル商会は石油部門を切離し明治33年にライジングサン石油を設立した。後のシェル石油である。
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