衰退した油問屋の大店

 江戸の十組問屋をはじめとする江戸の油問屋が隆盛を誇ったことは既に見てきたが,こうした大店でも明治の大変動期を乗り切れたところは多くない。
 十組問屋の雄,井筒屋小野善介(小野組) は,徳川幕府や全国諸藩に資金を用立てていた豪商で代々井筒屋小野善介を襲名し,支配人は善右衛門,番頭は善兵衛を名乗った。越後屋三井喜右衛門,戎屋島田八右衛門と並び,日本3大財閥と称されていた。井筒屋は元来,京都の糸商であり,絹糸では全国の専売権を有していた。その豊富な資金力から両替屋を営み,また油問屋(水油問屋)として名を馳せた。明治に入ってからもその勢いは衰えなかったが,大正初めに島田組が欧州対戦の思惑に失敗し破産したことから,政府は取引高の多い小野組に預金相当の担保を要求した。このことを契機に小野組は結局破綻することとなる。この小野組の油脂部にいた白鳥万蔵は明治34年に白鳥万蔵商店を起こし,三菱石油,大協石油などの特約店となった。
 枡屋長谷部喜右衛門商店も十組問屋の1つとして重きをなし,明治13,14年に油問屋組合が結成された時,その頭取になっており,明治に入ってからも業界のリーダーとしての地位を守っていたが,その後明治の半ばからは徐々に光を失い消えていった。
 山崎屋松田勘兵衛商店は,歴史からいえばもっとも古い油問屋で,大山崎離宮八幡宮の神人まで遡ることができ,300年以上の歴史を持っていた。大正3年には,岩出商店で番頭を務めた亀井某が山崎屋に婿入りするが,この時は島新商店の島田新助が親元となっている。その後,山崎屋松田勘兵衛商店は関東大震災で大きな被害を受け,店をたたむこととなった。