脈々と今に続く油問屋
島田新助商店(日本橋小網町)の歴史は古く,延享年間の武蔵屋吉兵衛まで遡り,亨和年間より代々島屋新助を号するようになった。江戸時代までは主に雑貨を扱う荒物商で,明治に入ってから「油・荒物商」になったようである。「当時の扱い商品は菜種油,胡麻油,椿油,荏油,小麦粉,蕎麦粉,素麺,干柿,雑貨は番傘,蝋そく,ランプ等であった。荷は伝馬船で河岸に着き,長い板のあゆびを桟橋に渡し,天秤で担いで蔵に運び入れました」と先代の増次郎(明治38年生まれ)は語っている(「小網町今昔」)。石油はスタンダード石油,日本石油を扱い,大正5年,ライジングサン石油の揮発油を扱う「東京月印揮発油組合」が設立され,瀬島猪之,奥田友三郎,岩出脩三,島田新助,北村長吉,細山太七,萩原利右衛門,加藤長九郎,伊藤平蔵等が参加した。植物油は大正5年より竹本油脂の「丸本胡麻油」を扱い始め,後に日清製油の特約店となり,今日に至っている。このように時代の流れに沿って事業を拡大していく矢先に関東大震災が起こり,島新は大打撃を被った。家族と店員のほとんどを失い,かろうじて深川の別宅にいた増次郎(当時18歳)と洋三(16歳)だけは難を逃れた。その後,兄弟は姉の養子に迎えた島田善介を後見人として,一からの再興に全力を尽くすことになる。島田増次郎は昭和26年と33年に東京油問屋市場の理事長を務め,弟の洋三(八ツ菱商事)も営業人となっている。島田善介も東京鉱油商組合の初代理事長を務め活躍した。
館野栄吉商店(現(株)タテノコーポレーション)の初代栄吉は栃木県の豪商館野商店の次男として生まれた。明治17年日本橋小網町に妻菊の実家の援助もあり「伊藤芳次郎館野商店」の名で店を構えた。大正年間に「館野栄吉商店」となる。初代は「儲けの大きいものは商売ではない,薄利のものが本当の商売だ」と暴利を戒めた。同時にサイトを好まず,かつ代金回収と支払いには極めて厳しい問屋として名を馳せた。この伝統は受け継がれ,石油危機の価格暴騰時,3代栄一は「適正マージン適正価格」の販売を実践した。扱い商品に生活必需品が多くなったのはそのことも関係している。2代目栄吉は明治41年に東京高等商業学校(現一橋大学)卒業後家業に入ったが,初代の長男に対する指導は誠に厳しく,住み込み店員と同様に扱われたという。2代目は近代化に努め日本橋界隈の問屋として最も早く大福帳を改め,算用簿記の導入や前だれ座り机を廃止して洋服と洋机を支給配置したと伝わっている。また大正10年日米石油設立に参画,スタンダードオイルの東京代理店として石油事業を拡大した。さらに日本で配合飼料導入の草分け事業となった日本配合飼料(株)の設立発起人となり,館野商店は地域売捌き元となった。子会社三栄商店を通して,ドイツ・バイエル社と提携し農薬の製造販売もスタートした(昭和16年)。栄吉長男の3代栄一は昭和35年に家督を相続し,亡父の意志を継ぎ(財)報農会を設立,設立基金を提供したが,生涯理事とならなかった。栄一も大豆油,菜種油の一層の普及に力を注ぎ,昭和36〜41年東京油問屋市場理事長,その後全油販連会長等を務めた。館野商店は堅実な社風で信用を得ながら創業116年を迎える。
東京油問屋組合の組合員以外の当時の有力問屋・仲買で,現在も続いているのが,白鳥商事(株),(資)大家商店,(株)大家商店,(名)森本油店,(株)三河屋油店などである。
白鳥商事は,井筒屋小野善介(小野組)の油脂部で修業した白鳥万蔵が明治35年に浅草三筋町で開業したのがはじまりで,白鳥万蔵商店の手印「イヅツ」は井筒屋出身を表すのれん分けの印である。
森本油店は森本力三が橋本油店から明治35年に独立し,弟竹三とともに大木屋商店を開店したもの。日本石油,小倉石油め特約店となったが,なかんずく小倉石油の特約店としては都下随一という評判をとったという。
奥田製油所(滋賀県能登川)の奥田家の祖は古く元禄7年に菜種油の製造を始め,近畿きっての古い製油家として知られていた。文化11年に奥田平蔵の先々代が岐阜県大垣市に営業所を開設し,カク平印の菜種油を広めた。
奥田油店の奥田友三郎は明治30年に奥田家から独立,神田鎌倉河岸に油店を開業した。翌年,日本石油の特約店となり,大正7年には日本初のサービスステーションを開設した。また,東京鉱油商組合の必要を主唱し,先頭に立って創設,理事長に選ばれた。
合資会社大家商店の大家重次郎は7代目大家角兵衛の次男として滋賀県に生まれた。明治12年に奉公先の鈴木醸造店(群馬県)を辞し,東京神田美土代町に店を持った。初めは浅野物産のタンク印石油,後にスタンダード石油,小倉石油を扱い,大正14年にライジングサン石油の特約店となった。昭和24年に東英石油(シェル石油特約店)を設立した。3代目大家重治は昭和29〜33年,東京油問屋市場の理事長を務めている。
大家商店の創設者大家文蔵は明治23年滋賀県の生まれ。明治38年に東京へ出て,同郷の縁故ある大家重次郎商店へ奉公する。大正3年25歳の時に独立,牛込柳町にて植物油・雑貨小売業を始め,岩井の胡麻油,日華油脂の綿実油などを扱う。大正中頃からライジングサン石油の灯油を扱い,昭和7年現在の新宿区高田馬場に移転して,給油所を開設。戦後は出光興産の特約店として業績を伸ばした。大家萬次郎氏は全国石油政治連盟副会長,同関東支部会長をはじめ数多く要職に赴き,平成4〜6年東京油問屋市場理事長を務めた。
三河屋油店は,萩原商店で修業した菅野今朝吉が大正5年に田中油店より営業権を継承したもの。田中油店の創業は天正18(1590)年まで遡るという。現在,東京油問屋市場で理事を努める菅野今朝吉は2代目である。
林屋油店の歴史も古く初代林磯八が幕末の慶応2年,本所石原町に「林屋」の屋号で油鑞,雑貨を扱う店を開いたのが始まり。3代目磯八の次男が母方の姓を継ぎ,小林重次郎を名乗って本所北堅河岸に専業として独立した。
(株)マスキチは文化元年,枡屋(油問屋,両替商)として創業。、明治以降金田吉兵衛商店,枡吉油店を経て昭和43年マスキチとなる。
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