大豆油を伸ばした豊年と館野のカ
大正から昭和にかけての時代は,菜種油から大豆油へという新たな変化がはっきりした時代であったが,その流れは関東大震災によって加速されることになった。
その立役者になったのが豊年製油であり,館野商店である。大正13年に豊年製油は大阪で有力特約店11店により「大阪豊年会」を組織している。当時の20万トン近い大豆油生産量のうち,豊年製油は70%のシェアを持つという圧倒的な地位を占めていた。大阪の有力問屋である吉原定次郎商店,池田半兵衛商店,長谷川弥三郎商店,服部新次郎商店,中島太助商店などが豊年会に参加している。
一方,関東における豊年の特約店は,館野商店,藤田金之助商店,田宮太三郎商店の3つ(後に大孫商店も参加)に決まった。これら3つの問屋は伊勢水の取り扱い量の比較的少なかった問屋で,関東を代表する老舗問屋はもっぱら伊勢水,胡麻油を販売しており,抽出大豆油という目新しい豊年製油の油には腰が引けており,特約店にはならなかった。
多くの大手問屋が予測したように,関東における大豆油の販売は思うように運ばなかった。館野と豊年との契約は100トン単位であり,毎日のように貨車で汐留まで運ばれてくる大豆油は500缶単位であったが,売れる量は5缶とか10缶で,山のように積まれる在庫をどうやって捌くか,頭を悩ました。お腹をこわしたら弁償するという証文を入れることまでやったが,それでも売れ行きは芳しくなかった。館野は大正12年の春に100トンの契約を結んだが,7月までに30トンしか引き取れず,8月に平均価格を下げるためにさらに70トンを契約した。それらの契約残が8月31日までに,120トンに達していた。
そうした苦境を救ったのが9月1日に起きた関東大震災であった。館野商店も本店の建物は壊滅的な打撃を受け,貨車で運ばれてくる油は完全にストップしたが,豊年製油の清水工場から船で芝浦まで運ぶ海上輸送に切り代えることとした。東京中の問屋と仲買いが札束を抱えて芝浦に押し寄せたといわれるぐらい,油を求める多くの人が集まり,面白いように売れた。儲けようと思えば恐らく,巨万の富を築くことができたろう。しかし当時の館野商店の社長であつた館野栄吉は,利益を最小限に抑える道を選んだ。仕入れ原価に運賃を乗せる程度で売る決断をした。儲けを放棄する代わりに,今後も取引を継続するという言質をとるようにというのが館野栄吉の決断だった。
これを契機に館野商店は豊年製油の東日本総代理店となり,関東甲信越・静岡,東北6県への販売権を手に入れ,売り上げを急激に伸ばすこととなった。
こうして館野の大豆油販売量は鰻登りに増え続け,昭和2年に16万1,000缶,昭和3年に20万6,000缶,昭和4年には29万缶と飛躍した。しかし競争が激しくなって利益が出ず,特約店の大孫が経営危機に陥ることとなった。関東の特約店が関西への販売を禁止されているのに対して,関西の特約店は関東にも売ることができるという,不平等な取り決めが大きな障害になっていた。そこで豊年と交渉し,西の特約店の関東への販売を禁止するとともに,関東の3特約店(田宮商店は既に特約店を降りていた)による利益のプールと販売比率に応じた配分方式が決められ,採算が大幅に改善した。その後,館野商店の大豆油販売量は伸び続け,ピークとなった昭和14年には130万缶を売ったという。全国の大豆油の半分以上を館野が売っていたのである。このことは同時に,豊年製油が如何に大豆油の販売に努力し,独占的な地位を占めていたかということでもある。大豆油に占める豊年と館野の圧倒的な地位は,昭和36年に原料大豆の外貨割当て制度が廃止され,完全に自由化されるまで続くことになる。
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