昭和時代に新たな胎動
東京の油問屋が関東大震災によって受けた傷は重く,何代も続いた老舗の大問屋がこれを契機に店を閉めたり,商権を人に譲ったりし,古い名前が次々と消えていった。一方,老舗から独立したり仲買いや小売から商売を広げ,問屋の仲間入りする新しい活気のある店が次々に現れてきた。東京油問屋市場への新たな加入者も相次いだ。昭和14年11月21日に開かれた東京油問屋市場の臨時総会では,30名の新規加入者の披露が行われた。市場の会員は一挙に60名となった。この時の総会で,「新規加入者激増せるを以て,明15年1月より毎月会費を金3円50銭とす」(東京油問屋市場の議事記録より)と決められている。
この年に入会した会員には,その後の油市場を背負って立った人が数多くいる。たとえば大森良三,田原徳次郎,河合延太郎,遠藤慶吉,正木格三,白石長三郎,高石秀治,菱沼由三郎,高橋乾次郎,梅本権治郎,穂保時一などだ。
大坂屋白石長三郎の祖は江戸幕府御用達の魚問屋「大鉄」にまで遡り,明治には蒲鉾問屋として宮内庁御用達を拝受,第2次大戦による焼失・廃業まで約350年のれんを守り続けた。白石鉄次郎(7代目)は嘉永4年の生まれ。25歳で家督を継ぎ「大鉄」の名を広め,明治44年に他界するまで東京蒲鉾商組合の組合長を務めた。白石長三郎(8代目)は12歳の時に伊勢屋鈴木嘉助商店に奉公に出て,昭和4年大井町に「大坂屋油店」を開業した。大戦中は油脂配給挺身隊の隊長として活躍した。昭和47〜53年まで東京油問屋市場の理事長を務めている。現社長白石欣三郎氏は9代目で,平成8年から2年間油問屋市場の理事長を務めた。
菱沼由三郎の伊豆安商店は,松平伊豆守の御用商店であった伊勢屋安エ門から分家した伊豆屋安エ門の流れをくみ,4代目の斉藤安エ門が若くして病死したため店が整理され,その後実弟の菱沼由三郎(菱沼家を継ぐ)が昭和5年に再興したもの。駒形の伊豆安からは,宇田川喜三郎,沢金三,西岡芳郎,住谷泰次,高橋(徳)などの人材を輩出している。菱沼由三郎は戦後,東京油問屋市場の理事長を務め,業界の重鎮として活躍した。
宇田川喜三郎は昭和2年に独立し浅草田島町に店舗(宇田川商店)を開き,主に村田製油のヤマキ印ゴマ油や館野から豊年の大豆油を仕入れ販売した。伊豆安から独立した西岡芳郎商店,山文商店(住谷泰次)などが2次店として字田川喜三郎を支えた。また喜三郎の後,宇田川商店の社長として支えたのが娘婿に当たる岩佐長四郎で,岩佐は東京油問屋市場の理事長を3年間務めている。
田原徳次郎は明治10年,田原香油を浅草蔵前に創業した。昭和20年に株式会社に改組。油脂,石油の他に髪油の製造も行った。群馬や栃木へと直接小売店への販売に回ったという。後を継いだ田原欣之助は昭和59年から平成2年まで6年間にわたり東京油問屋市場の理事長を務めている。
遠藤慶吉は,関東大震災により勤めていた業平製油が解散したため,独立し大正12年に遠藤慶吉商店を開業した。大正13年に野田醤油,昭和3年に花王石鹸の特約店となり売り上げを伸ばした。
穂保時一は父平蔵が明治37年に開業した山形屋油店を昭和13年に継承した。油脂と石油製品の販売を手がけ,給油所の経営も行っている。
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