統制時代の油問屋

 1900年代は世界大戦をはじめ震災や恐慌などさまざまな災厄に襲われた。第1次世界大戦(1914〜1918年)はわが国への影響は少なく,逆に戦争特需で経済は潤った。しかし大震災の被害からようやく立ち直った頃,昭和恐慌(昭和4年〜7年)に襲われ,農村は疲弊し,5.15事件(昭和7年に起こった海軍青年将校によるクーデター計画)を引き起こす遠因ともなった。この頃から中国大陸に駐屯した関東軍の独走が始まり,満州事変(昭和6年)に続く満州国の樹立(昭和7年),そして15年戦争,日華事変へと日本を追い込んで行く。一方,国内では昭和11年に起こった2.26事件を契機に軍部による政治支配が強まり,昭和16年12月8日に米国に対して宣戦布告を行い,太平洋戦争,第2次世界大戦へと突入して行くことになる。
 こうして戦争遂行に向けて国内法の整備が着々と進められ,昭和13年4月には国家総動員法が成立した。一方で物資の生産,流通,消費の統制が一層強化されることとなった。昭和14年9月18日には価格停止令が出され,物価は凍結された。
 以下,油脂に関連した統制組合を紹介する。

昭和14年: 2月23日に大阪植物油卸商業組合が設立。理事長/長谷川弥三郎,理事/吉原定治郎,志方勢七,木村治朗,中島太助,池田半兵エ,渡部与重郎,服部新次郎,古川儀三郎。
11月2日に東京植物油卸商業組合が設立。理事長/館野栄吉,副理事長/萩原利右エ門,理事/藤井卯太郎,森本力三,飯島録三郎,穴水徳五郎,大家清之助,酒井幸吉,山崎多一郎,田原徳次郎,林千代松。

昭和15年: 日本コプラ統制(株),日本乾性油工業組合,日本半乾性油工業,日本胡麻油工業組合,日本麻実油工業組合,日本大豆油工業組合,府県別菜種工業組合がそれぞれ設立。
7月に日本輸出農産物会社が設立され,菜種,菜種油,菜種粕の統制機関となった。
11月に日本油料統制会社が設立され,菜種,大豆以外の全油糧が統制されることとなった(会長に吉原定次郎,社長に後藤幹夫)。また大豆については,日本大豆製品共販会社を日本大豆統制会社が吸収合併,豊年製油の杉山金太郎が社長に就任した。

昭和16年: 3月に「植物油卸商業組合」と「植物油小売商業組合」が発足。大口需要者に対しては農林省の配給指令によって出荷し,食用油の残りについては,準切符制による配給が行われた。

昭和17年: 9月「帝国油糧統制(株)」(社長,周東英雄)が設立。日本油料統制,大豆統制,魚油配給統制,日本コプラ統制の4つの会社が合併した。戦争により,植物油原料の輸入が減少し,国産の菜種も主食の生産に圧迫されて減少した。

昭和18年: 8月に「企業整備令」が公布。輸入原料処理工場(大規模工場)と内地産原料処理工場(小規模工場)に分けて区分し,残りの工場設備は保有,転用,廃止されることとなった。これと同時に製油業界は既存の種類別工業組合(大豆油,乾性油,半乾性油,不乾性油,胡麻油など油種別による)を解散し,新たに「(社)油脂製造業会」を18年8月に組織した。ここで,操業率の決定,原料の割当て,保有工場の維持,廃止工場の助成金支給などを行った。会長に杉山金太郎,副会長に吉原定次郎。