全国油脂販売業者連合会(全油販連)の設立

 戦前は統制組合として全国の卸業を組織した「全国油脂販売業者連盟」(会長・館野栄吉)が設立されたが,戦後は各地区ごとの組合が独自の活動を行っていた。しかし,昭和25年の油脂統制撤廃,朝鮮戦争後の“新三品暴落”により油脂業界は大混乱に陥り,多くのメーカー,販売業者が倒産に追い込まれることとなった。また食用油価格の暴騰やメーカーの出荷規制などによる取扱数量の激減といった,油脂販売業全体の死活問題がクローズアップされるに及んで,全国組織の必要性が叫ばれるようになった。東京油問屋市場では,油脂販売業者の大同団結を大阪,名古屋を古はじめとして全国の卸業界に呼びかけることとした。そして昭和27年12月から全国の業者に対する遊説を展開し,参加を募った。全国の油脂販売業者の賛同が得られたことにより,昭和28年3月2日,東京油問屋市場の会議室において創立総会を開催することができた。
 初代会長には(株)館野栄吉商店の館野栄吉社長,副会長には飯島録三郎と木村治朗が選ばれた。全油販連の運営費は東京と大阪が中心に負担し,各府県で組織のある団体にも若干の負担をしてもらうことになった。愛知県油脂卸協同組合(太田進造理事長)は28年10月1日に設立され全油販連に参加した。

関西油脂協議会の設立

 全国油脂販売業者連合会設立の気運が高まるとともに,関西でも地域の油問屋の組合設立に向けての動きが着々と進んでいた。昭和28年3月2日に開かれた全油販連の設立総会には,関西の油脂業界から木村商店,近畿油業,大阪油脂,長谷川商店の4社が出席していたが,東京油問屋と車の両輪となるべき団体の設立は遅れていた。全油販連の常務理事1名,理事4名が関西の卸団体から出すことが決まっていたこともあり,昭和28年3月18日に至り,「関西油脂協議会」の設立総会が開かれることとなった。設立総会は大阪の油糧倶楽部において開催され,16社が出席した。会長には木村商店の木村治朗が選ばれた。協議会事務所は木村商店内に設置することとされた。
 マルキチ(旧木村商店)はイケハン(池田屋半兵衛)と並び伝統ある関西でももっとも古い油問屋で,創業は元禄2(1689)年にまで遡り,丸屋吉兵衛が薬種,油脂,木蠟問屋を始めたもの。今日も木村治愛が関西油脂販売業界の重鎮である。

消防法改正の推進運動

 昭和30年12月,動植物油類を消防法上の危険物指定から外してもらうための運動を進めるため,市場内に「危険物対策委員会」を設置した。油問屋市場の呼びかけに多くの関連業界が呼応し,翌31年1月16日に市場の会議室に13団体が集まり指定除外の運動推進に向けて協議を行った。そして32年1月15日,日本橋公会堂ホールにおいて全国油脂関係業者大会を開催し,「企業の合理化を阻む消防法第二条六項別表危険物より動植物油類を削除する法律改正の即時実現を期す」との大会決議文を採択した。これらの運動が実り,消防法の改正が成立したのは昭和34年3月のことで,危険物に当たる動植物油類について,「動植物油類とは不燃性容器に収納密栓され貯蔵保管中以外のものをいう」と新たな定義が行われた。