油祖離宮八幡宮創建1150周年にまつわる話題(1) |
油祖離宮八幡宮崇敬会
会 長 木 村 治 愛
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ここがわからん 離宮八幡宮の由緒
∞ 興味本位の検証 ∞
参拝の栞などには次のように案内されている・・・
『平安時代の初め清和天皇が、太陽が我が身に宿る夢を見られた時のお告げにより、九州(大分県)宇佐神宮から八幡神を頂いて帰郷した僧・行教が、山崎の港で夜の天王山に霊光を見た。その地を掘ると岩間に清水が湧き出したので、そこに八幡神を安置し国家鎮護の宮とすることにした。』・・・なるほどだがしかし、この話あまりに不明な点が多い。
なぜ天皇がそのような夢を?
清和天皇は859年、9歳で即位された。僧・行教を宇佐へ使いに出されたのは翌年のことである。そのきっかけとなった天皇の夢とは「国家鎮護のためには宇佐神宮の八幡神の分身を頂いて祀るがよい。」というものであった。
そんなに国は乱れておったのか? 当時の社会は、少数の富豪層と大多数の貧困層(一般百姓層)へと階層の二極分化が進み、貧困層の増大が治安をゆさぶり、また課税制度の破たんを招いていた。
即位早々の幼い天皇が、あるいは実際には摂政の藤原良房が、夢にまで見るほどその状況に心を痛めておられたのは至極自然なことと言える。
なぜお寺の坊さんが遣いに?
行教さんは奈良・大安寺の坊さんであった。それがなぜ清和天皇の命令によって宇佐くんだりまで遣いに出されなければならなかったのか?
大安寺は、今も奈良市大安寺2丁目に在って大いに繁盛している。大安寺は日本最古の寺の一つで、飛鳥時代の中心的な寺院として栄えた。
大安寺
奈良の都が飛鳥から平城京へ遷都(710年)したのに伴ってその一角(現在の場所)へ移転した。都を守る寺院という地位が明らかである。
当時は神仏習合の時代である。神社の境内には守り寺があり、寺院には守り神の社が建っていた。東大寺も然りである。
733年には大安寺の僧が遣唐使として唐へ渡り、736年には唐・インド・ベトナムの僧が渡来して大安寺に住まった。このことからも大安寺の活躍ぶりがうかがえる。
長岡京遷都を経て794年に京都・平安京へ都が移った後も朝廷と大安寺とのコネクションは続いていた。宇佐までは淀川を下り瀬戸内を船で往復しなければならない。
大安寺は遣唐使船による海上往来の経験がある。弘法大師・空海の弟子として修業を積んだ行教さんが大任を引き受けることになった。
行教さんは同行の使者と二人で貞観元年(859年)4月15日に宇佐神宮に到着し、90日間神前に籠って祈願した後、7月23日ご神体を頂いて宇佐神宮を出発、8月23日山崎の港に無事帰着した。その夜の出来事は冒頭の由緒書きの通りである。
遷座の目的地は大山崎?男山?
「西海から僧・行教によって京へ運ばれた八幡神は、男山鎮座に先立ち、先ず山崎離宮の辺りに着座された」(離宮八幡宮史)というのが客観的な事実である。
貞観元年(859年)8月23日、最初に上陸した所が大山崎の嵯峨天皇の離宮の跡の辺りであったことから、行教の報告を受けた清和天皇は即座にその地に鎮座を命じられた。
霊光を見たとか、清水が湧き出たという逸話が付け加えられている。
しかし、再び八幡神の「男山(八幡市)に遷座せよ」とのお告げを感得した行教が、この経緯を朝廷へ伝えたところ、すぐさま清和天皇の命により男山山上にも社殿が造営さることになった。
離宮八幡宮史によると、離宮八幡宮の造営が貞観2年(860年)8月23日であり、男山へ分神を移したのは貞観18年4月3日という古文書が紹介されている。
この4月3日が日使頭祭の伝統行事になっている。
一方、石清水八幡宮の社伝によると、男山の社殿造営は、山崎へ上陸した翌年の貞観2年(860年)4月であり、同宮は都の北東(表鬼門)にある比叡山延暦寺と対峙して南西(裏鬼門)を守る神として崇敬を受けたとされている。
石清水八幡宮では行教さんを開祖としている。
つまり目的地は大山崎でも男山でもなく「京」であった。
離宮八幡宮と石清水八幡宮は双子の兄弟と考えるべきではないか。
石清水八幡宮
なぜ宇佐神宮?
八幡信仰は応仁天皇の聖徳を称えるとともに、仏教文化と神道を習合したものとも考えられている。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し新しい国づくりをされた天皇である。
宇佐神宮は神亀2年 (725年)、聖武天皇の命により現在の地に建立された。
現在全国4万600社あまりの八幡さんの総本宮である。聖武天皇は仏教の信仰が厚く、諸国に国分寺を造られたお方である。
奈良の大仏も聖武天皇が疫病や社会不安から国を鎮護するための国家的大事業として天平17年(745年)に制作が開始された。しかし、仏教寺院の建設に莫大な費用をかけることに対して貴族が反対する気配があった。
その時、宇佐神宮が「天の神・地の神を率い、わが身を投げ打って、東大寺の建立を必ず成功させる」という八幡神のご託宣を奉じて協力し、天平勝宝4年(752年)にめでたく完成を見た。
そして油絞りは油屋の常識
貞観年間(859〜876)の頃に八幡宮に仕える誰か(これを神人JININと言う)が、荏胡麻の実から油を絞る用具を発明し、絞った油を平安京の朝廷や神社や寺院の灯明油として納めるようになった。この用具を「長木CHOUGI」と言って、テコを応用した簡単なものだが、木工と力学のセンスを持った人が居たのだろう。
用具のお陰で油絞りが長期にわたる離宮八幡宮と大山崎の繁栄をもたらすことになる。
大山崎の油商人が市場に君臨するのは三百数十年も後のことである。
おわり
(写真出典 Wikipedia)
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